鳥のように [鳥類]
港に船とカモメを見に行ってきました。
ひょんなことで出会った方がとても素敵な生き方をしていました。自分はいくつかの夢を諦めたり、自由が多少奪われることを覚悟のうえで地に根を張ったつもりだったのですが、同世代の方がフワフワと浮かびながらも努力を続け夢を叶えていました。地に根を張った見返りは非常に大きくそれはそれで何にも代え難いものです。でも失ったものもどうやら少なくありません。覚悟はしていたはずなのですが、目の前で飛ばれるとやはり鳥はうらやましい。かといって今さら地上を離れるのは無謀だし不可能です。もちろんフワフワと浮かんでいると得られないものもあるのですが、それを感じさせない素敵な生き方でした。
鳥のように自由に飛びたい。自由に生きるのは実は大変なことです。何でも自由にやるにはそれなりの実力が必要だから。以前は「自由に生きるための実力をつける」というのを目標に生きていました。それが今では目の前の生活で精一杯。それを自ら望んだ部分もあるし、流れの中で仕方ない部分もあるし、そもそも同世代の大部分は同じように地に根を張って大きな不満もなく生きています。でもこれじゃまるで係留された氷川丸じゃないか。沈没しない代わりに航海も出来ない。
ラピュタ最後のシーンでムスカのミスがやたら目に付いてしまうのは、自分自身が飛んで生きていたいという願望があるからなのかもしれません。ムスカに達成してほしかったのでしょう。シータは「土に根をおろし、風と共に生きよう。・・・(略)・・・土から離れては生きられないのよ!」と言っています。多分ここが宮崎駿がラピュタの作品を通じて言いたいことなんでしょうね。そりゃそうかもしれないけどさ。ムスカが掛け合います。「ラピュタは滅びぬ。・・・(略)・・・ラピュタの力こそ人類の夢だからだ」。どちらかと言うとムスカの肩を持ちたい。リスクを背負ってでも自由に生きたい、夢を追いたいと思ってしまうのは大人気ないのでしょうか。
考えてみれば、自転車が好きなのも海外旅行が好きなのも自由に飛んでいたい願望なのでしょう。自分の実力次第でどこにだって行けちゃうんですから。苦しい上り坂を越える時にこそ生きていることを実感出来るんです。難しい旅であればあるほど乗り越えたときの達成感があるんです。その日暮らし、その場暮らしみたいなことこそ、生きていることを実感出来るんです。
そしてトンボが好きなのも同じ理由かもしれません。地に根を下ろした時期とトンボ写真を撮り始めた時期が一致しています。フワフワ浮かんでいた頃だって撮れたはずなのに。でも撮らなかった。自分がトンボの様に動けていたから。動けなくなったからこそ自由に飛ぶトンボに改めて憧れ、そこに昔の自分や理想の生活を見ているのかもしれません。車で行きゃいいのにわざわざ自転車でトンボを見に行くのは、今生きていることの確認、無難な生活へのささやかな抵抗、自由への憧れを具象化したものだったんですね。
そんなことを考えていたら非常に憂鬱になってしまったのですが、大体毎年この時期は生き物が減ってきて憂鬱なのでいつも通りと言えばいつも通りですね。もともと憂鬱な時期なのに、鳥のように飛ぶ人を目の前にして嫉妬しただけ。ホント悔しい。でも時間が経てば恵まれた今の環境に感謝できるようになると思います。
jan-ll8 さんの想いはよ~く理解できます。
でもね・・・、と思わない部分ももちろんありますが、
それを書いてしまうと飛べない私が言い訳をしているだけのようで
自己嫌悪におちいりそう。。。
夢や願望、嫉妬に悔しさ・・、
そういったものが遠くに感じるようになった時こそが心が老いた時で
人生がつまらなくなってしまう時。
「飛びたい!」と思わないことは楽ではありますが、そうはなりたくないですよね。
そうはなりたくないけれど・・・、飛ぶのはやはりむつかしい。
(o_ _)o ← 飛ぶのに失敗した招き猫。
あきらめたわけではなく、次は目標と距離を小さくしようかな。
by 招き猫 (2011-12-26 17:41)
招き猫さん
ありがとうございます。
現実的には飛べないようになるのが普通なのかもしれません。
夢を選ぶか現実を選ぶか。寂しい選択だなあ。
by jan-ll8 (2011-12-30 22:11)
鳥に翼があるように 人には言葉がある
らしいのだけども。さて。
by 春分 (2011-12-31 21:23)
春分さん
言葉で飛べるようになるといいんですが。。。
by jan-ll8 (2012-01-30 20:43)